差別化が難しいビジネスホテル業界において、ブランドの再構築によって「熱狂的ファンづくり」に成功している企業がある。それが、東横インである。
好立地・機能的な客室・リーズナブルな料金——これらはかつて東横インの強みであったが、今や業界全体のスタンダードとなり、優位性を失いつつあった。この危機感から、同社は創業以来初のリブランディングに着手する。
その象徴が、都道府県ごとにデザインが異なる、1個300円の「ご当地ピンバッジ」だ。単なるノベルティにしか見えないこの施策が、なぜ1年足らずで販売数13万個を突破するほどの熱狂を生んだのか。そして、なぜ「たかがピンバッジ」が顧客だけでなく、現場で働くスタッフの心まで動かしたのか。
「差別化不可能」とされる業界での逆転劇
ビジネスホテルほど、差別化の難しい業態はない。駅からの距離、部屋の広さ、朝食の有無、宿泊料金。顧客が比較する軸はあらかじめ決まっており、どの事業者も同じ土俵で戦うしかない。一度誰かが「清潔で、安くて、便利」という勝ちパターンを打ち立てれば、他社は追随するほかなく、やがて業界全体が金太郎飴と化す。
東横インも、この罠から逃れられなかった一社である。好立地、機能的な客室、リーズナブルな料金。これらは長年、同社を支えてきた強みだった。しかし、その強みこそがビジネスホテル業界全体のスタンダードとなり、気づけば優位性を失わせていたのである。自らが切り拓いた道が、そのまま競合との差を消し去ってしまう。これは、成熟市場で戦うすべての経営者が一度は突き当たる壁だ。
そこに、追い打ちがかかった。特色を打ち出す競合が次々と台頭し、競争軸そのものが広がった。さらにコロナ禍が需要そのものを蒸発させ、安定稼働を支えていた土台が音を立てて崩れかけていた。
危機感を抱いた東横インが選んだのは、値下げでも、広告投下でもなかった。「今ある強みを守る」のではなく、「顧客一人ひとりの体験そのものを再定義する」という、経営の土台に手を入れる決断である。
そして、この方針転換から生まれたのが、次章で取り上げる一枚のピンバッジだ。差別化不可能とされた市場で、なぜ300円の小さな金属片が、これほどの熱狂を生むことになったのか。
顧客と従業員、二つの体験を同時に動かす仕掛け
多くの企業が「顧客満足」と「従業員満足」を、別々の予算・別々の施策で追いかけている。マーケティング部門は集客キャンペーンを打ち、人事部門は社内表彰制度や研修を用意する。しかし、この二つはしばしば分断され、片方への投資がもう一方に波及することはほとんどない。
東横インのピンバッジが優れているのは、この二つを一つの仕掛けで同時に成立させている点にある。顧客はバッジを手に入れるために、フロントに立つスタッフへ声をかけなければならない。ただ会計を済ませるだけの無機質なやり取りに、「これください」というひと言が加わる。たったそれだけのことだが、この一言が、顧客とスタッフの間に小さな会話の糸口を生む。
スタッフの側から見れば、これは日々の業務に埋もれがちな「感謝される瞬間」を人為的に増やす仕組みでもある。宿泊客から「バッジ、可愛いですね」「集めているんです」と声をかけられれば、単なる受付業務が、誰かに喜ばれる仕事へと姿を変える。人は「ありがとう」と言われる回数が増えるほど、自分の仕事に誇りを持ちやすくなる。ホスピタリティ業のような労働集約型の仕事において、この小さな承認の積み重ねは、離職防止やモチベーション維持に直結する経営課題そのものである。
つまり、この施策は、集客ツールであると同時に、現場のやる気を引き出す装置としても機能している。
広告費を投じて認知を広げる方法や、社内研修に予算を割いて士気を高める方法と比べれば、コストは驚くほど小さい。それでいて、顧客体験と従業員体験という、本来切り離して語られがちな二つの経営課題に、同時に効いてくる。
経営者にとって重要なのは、「顧客を喜ばせる施策」と「社員のやる気を引き出す施策」を、はじめから別物として設計しないという発想である。両者が交差する一点を見つけられれば、限られた予算であっても、投資対効果は二重に膨らんでいく。
現場のアイデアで終わらせない、経営トップの覚悟という土台
こうした施策を聞くと、「うちも真似できそうだ」と考える経営者は多いだろう。ノベルティを一つ作り、現場のスタッフに手渡してもらう——。確かに、真似すること自体は難しくない。しかし、そう単純な話ではない点にこそ、この事例の本質がある。
多くの企業で、現場発の小さな施策は長続きしない。担当者が異動すれば止まり、一時的な効果が数字に表れなければ、次の予算編成で真っ先に削られる。なぜなら、それが「思いつき」の域を出ず、経営の意思決定と紐づいていないからだ。現場は現場なりに工夫を凝らすが、その工夫を支える大義名分がなければ、社内で継続する力を持てない。
東横インのピンバッジが13万個という規模にまで育った背景には、経営トップ自らが「今ある強みを守るのではなく、顧客一人ひとりの体験を再定義する」という方針を掲げ、会社全体の優先順位を変えたという事実がある。
つまりこの施策は、一担当者の思いつきではなく、経営が「これをやる」と決めた大きな方向性の中の、具体的な一つの表れに過ぎない。トップが本気で舵を切ったからこそ、現場も安心して力を注ぎ、施策自体にぶれない一貫性が生まれたのである。
これは中小企業の経営者にとって、むしろ勇気を与える事実でもある。大企業のような潤沢な予算がなくとも、経営者自身が「何を大切にするか」を本気で決め、その旗を掲げ続けさえすれば、現場発の小さな施策は驚くほどの熱狂に育つ可能性を持つ。
逆に言えば、経営者が本気を見せなければ、どれだけ優れたアイデアも、社内の片隅で立ち消えていく運命にある。
小さな施策の成否を分けるのは、アイデアの奇抜さではない。経営トップが、その施策の背後にある方針転換に、どれだけ本気で腹をくくっているか。それこそが、一過性のノベルティと、事業を動かす戦略との分かれ目なのである。
東横インの事例が、すべての経営者に問いかけること
ここまで見てきた東横インの逆転劇は、一見するとビジネスホテルという特殊な業界の、ピンバッジという些細な施策の話に映るかもしれない。しかし、そこに詰め込まれた発想は、業種の垣根を越えて、あらゆる経営者に応用できる普遍的な問いを含んでいる。
第一に問われるのは、「自社の強みは、まだ本当に強みか」という視点である。
かつての勝ちパターンが業界標準に成り下がっていないか、経営者は定期的に自問する必要がある。優位性は一度築いて終わりではなく、放置すれば必ず陳腐化する。この危機感を持てるかどうかが、次の一手を打てる企業と、現状維持のまま埋没していく企業を分ける。
第二に、次の一手は必ずしも大きな投資を必要としない。
東横インが仕掛けたのは、莫大な広告費でも大規模なリニューアルでもなく、1個300円のピンバッジという小さな仕掛けだった。重要なのは金額の大小ではなく、顧客の「集めたい」「また来たい」という感情をどう刺激するかという設計力である。予算の少ない中小企業にこそ、こうした知恵の使いどころは大きい。
第三に、施策は「顧客」と「社員」を別々に考えないことで、効果が二重になるという事実である。
顧客満足のための施策が、同時に現場のやる気や誇りを引き出す仕掛けになっているか。この視点を持つだけで、一つの投資から得られるリターンは大きく変わってくる。
そして最後に、経営者自身の覚悟。
これがもっとも重要な点だが、こうした施策を一過性で終わらせず、事業を動かす力に育てられるかどうかは、経営者自身の覚悟にかかっている。
現場のアイデアがどれだけ優れていても、経営トップがそこに本気で旗を立てなければ、いずれ立ち消えてしまう。逆に言えば、経営者が本気で方針を掲げ、それを社内外に発信し続けることこそが、広報・PRを単なる情報発信ではなく、経営戦略そのものへと昇華させる力になる。
東横インの熱狂的ファンづくり戦略が教えてくれるのは、特別な業界だけの特殊な成功譚ではない。差別化が難しいと諦めかけているすべての経営者にとって、自社の中にまだ眠っている「小さな逆転の種」を見つけ出すための、一つの確かな視点なのである。
